世界で初めて成功させた日本の養殖真珠のヒストリー

真珠の養殖成功から125年
真珠がどのように作られるのかという点については、実際にはかなり昔から研究が行われてきました。
最初にその過程を確立したのが、ドイツのヘスリングです。
この方は天然の真珠を調査して、真珠の周囲に上皮細胞による膜ができていることを発見します。
それが真珠の形成に大きな役割を果たしている、ということを突き止めました。
実はこの膜と呼ばれている物が、現在の養殖真珠にも必要不可欠な役割を果たしています。
この膜のことを真珠袋と呼んでいますが、ここが真珠の形を作るためには絶対的に必要な存在であると言えます。
当時のヨーロッパでは、寄生虫の介入によって真珠袋が作られる、と考えられていました。
そのため、あくまで自然的な原理によって作られるものだと考えられていたのですが、この理論に東京帝国大学の教授が注目し、後に日本の養殖真珠の礎(いしずえ)を築く御木本幸吉(ミキモトコウキチ)氏と西川藤吉(にしかわとうきち)氏に伝授されることになりました。
養殖真珠の始まりと日本
養殖真珠は明治26年(1893年)、御木本幸吉氏の手によって初めて作られたと言われています。
それまでも貝を使って真珠層を纏わせた物は作られてきましたが、それはあくまでブリスターという、表面だけが真珠層で覆われているだけの物でした。
それを養殖の真円真珠として成立させたことは、今日でも養殖真珠の発展にとって重要な役割をしたと言われています。
明治26年の当初に作られたのは丸い真珠ではありませんでしたが、それから約10年後の明治38年(1905年)には真円真珠の生成方法を確立させることに成功し、現在まで続く養殖真珠の礎を築いてきました。
世界から見た養殖真珠
世界的に見ても、真珠という宝石は昔から重宝されてきました。
中国でもカラスガイを使用し、表面を真珠層でコーティングしたブリスターの技術は古くから確立されていました。
主に仏具の装飾として作られ、1734年にはフランス人の神父によって、その技術がヨーロッパに渡ることになります。
1761年のスウェーデンでは、科学者のリンネにより養殖真珠の生成が行われています。
当初は中国から持ち帰ったブリスターの技術を用いたものでしたが、その際に真円真珠の制作を開始し、製造された真珠は現在でもリンネ協会によって保管されています。
(リンネ協会とはイギリスのロンドンにある分類学・博物学の研究と普及を目的とした学術機関の名称です)
さらに時を経た1800年代には、フランスのブション・ブインドリー氏によって、真珠貝に小さな穴を開けて真珠の核を入れ、それを海中に入れておくことで核が真珠層で覆われたことが伝えられています。
またイギリスでも、シロチョウガイを使った半円ブリスター養殖を開始し、当初は売上も高かったようですが、売上が落ちてくると共に事業も撤廃されています。
御木本幸吉氏と養殖真珠の関わり
日本の養殖真珠技術の確立に大きな貢献を果たした御木本氏ですが、養殖真珠を始めるきっかけとなったのは、自身の故郷にあるアコヤの天然真珠が非常に高値で取引されていることを知ったから、と言われています。
そこから御木本氏は、養殖の真珠の事業化を開始することを決意しました。
まず必要になるのが養殖真珠を作りだすための大量のアコヤガイですが、当時アコヤガイは天然真珠採取によって数を減らしつつありました。
この出来事自体も、養殖真珠の開発に着手する目的の一つとなるのですが、その後も紆余曲折を経た挑戦が続いていきます。
真珠の養殖に苦戦するなかで転機となったのが、明治25年(1892年)の養殖場での赤潮の発生です。
実験中の貝が全滅するという痛手にあいましたが、異なる場所で養殖していたアコヤガイから、偶然にも5つの半円真珠(ブリスター)を発見します。
御木本氏はこの半円真珠を徹底的に調べ上げ、養殖するための技術を確立しました。
特許の申請を行うと同時に商品化にも着手し、その後は急速に半円の養殖真珠の事業を拡大して行くことになります。
明治27年には、特許代2670号「真珠素質被着法」を取得しました。
この特許項目には、「貝体内に色々な球形または一部を少し切り落とした核を挿入する」ということが記されていますが、その位置などの詳細については記されていません。
これによって特許が半円真珠のみならず、いづれ実現することになる真円真珠の生成についても大きな意味を持ることになります。
半円真珠の事業は成功し、御木本氏はそれに伴う売上を真円真珠の研究に注ぎ込んでいきます。
世界初、真円真珠への道のり
本格的に真円真珠の研究に乗り出した御木本氏ですが、その理念にはヘスリングによる真珠袋形成理論が使用されていました。
そのため既に生きた真珠貝の中に真珠袋が形成される、ということを把握していたことから、その理論に則って真円真珠生成の研究が進んでいくことになります。
当初は外からの異物が貝の中にある外面上皮細胞上に落ち、その重みで真珠袋が作られていくことから、ヘラなどを用いてアコヤガイを優しく押さえつける実験が行われました。
それらの方法では、潜入した核がブリスター状になったり、貝の体外に吐き出されるなど、完成する真珠自体も粗悪な物ばかりでしたが、明治38年(1905年)になると数個の真円真珠を完成させることができました。
真円真珠生成の成功に伴い、御木本氏はその後さらに真円真珠の養殖を進めていき、明治40年(1907年)には採取できた真円真珠の中から12個を選び、明治天皇へと献上をしています。
その後こちらの真珠は「真珠振興法(2016年)」の成立に伴い、真珠業界の役に立てられるように返還されています。
世界で初めて、となる真円真珠の養殖に成功した御木本氏の養殖方法は、明治38年(1905年)に現在も知られている「三八式真珠養殖法」として纏められます。
明治40年(1907年)には、特許の申請と特許代13673号「真珠素質被着法」の取得も行われました。
日本で開発された真円真珠とヨーロッパとの関わり
真円真珠が完成した後、当時のヨーロッパで販売を行った際には、ロンドン・パリで養殖真珠の真偽が疑われる問題が発生しました。
大正13年(1924年)の裁判において、養殖真珠と天然真珠はなんら変わることのない品質である、という判決が下されましたが、それでも養殖真珠への懐疑的な目が向けられることがありました。
それらの意識を払拭するため、大正15年(1926年)には、真珠の養殖場の現地に佐々木忠次郎氏を含む委員会を派遣し、調査を実施しています。
実際に養殖の現場を視察し、最終的に真円真珠が天然の真珠と変わりないことを証明するに至ります。
この視察で述べられた結果としては、貝の中に核をしまう過程自体に精密な作業が求められ、ヨーロッパの学者の間でも実際に行うことは困難であると判断されていました。
しかし実地調査により、全ての技術者がその精密作業をこなしていることを目の当たりにし、さらにはその養殖方法によって真円の真珠が生成されるのが確認されたことから、ヨーロッパで起きた養殖真珠の真偽問題は徐々に沈下していくことになり、最終的には日本の養殖真珠が世界に広く認められる結果となりました。
その後の養殖真珠と現代までの流れ
養殖真珠は御木本氏以外にも、西川藤吉氏や見瀬辰平氏らによって大きく技術を高めていくことになります。
アコヤガイによる真円真珠生成を皮切りに、他の貝を使った真円真珠の生成も行われるようになりました。
1923年には、インドネシアでシロチョウガイを使った養殖真珠が登場し、1913年には沖縄の石垣島にてクロチョウガイを使った真円真珠が登場しました。
さらに1925年には、滋賀県の琵琶湖にて淡水を使った真珠の養殖などが行われました。
今日でも、日本人による真円真珠の養殖は活発に行われているのです。